震災と暮らしを考える

 今回はとても久しぶりに、南相馬市立中央図書館で「てつがくカフェ」がひらかれました。地元では原町、小高、相馬から、遠方からは神戸や京都から、10数名の方々が参加してくださり、お茶やお菓子を片手に、和やかな雰囲気のなかで、対話が始まりました。

 

 まずは、テーマから考えられること、思いつくことなどを、自由に語ってみる時間です。そこでは、いくつもの印象に残る言葉に出会いました。

 

 壊れたら、直せない。地震が起きて、使っていなかったコップや、飾ってあった賞状や、家電が、壊れてしまった。壊れたら、直せないものがある。そして、壊れなければ、わからないことだってあるはずだ。

 

 ある方が語って聞かせてくださった、「今は、生活はあるけれど、暮らしはない。」という発言も心に残りました。震災と原発事故の後、コンビニやスーパーで、加工された弁当を買い、それを食べて生活している。でもそこに、「暮らし」はない。「暮らし」というものは、ただ生きているだけのことではない。お祭りの時期になると、町内の方たちと協力して、お神楽の準備をする。節目節目に、鍋や釜をだしてきて、季節の料理を作る。余ったら、近所の人にお裾分けをする。そういったものが「暮らし」ではないか。そしてその「暮らし」が、壊されてしまった。

 

 小高の道を歩いていると、知り合いに会いはしないかと、ついつい考えてしまう。そんな発言にも、深く考えさせられました。原発事故によって、故郷からの立ち退きを強いられてしまった。避難先から、生まれ育った土地に戻るということは、人々の胸の中に、このような思いを生じさせるのです。

 

 「直葬」という言葉もありました。私自身、心にとげが引っ掛かるような思いが、いまだに残っています。原発事故によって突然の避難を余儀なくされ、亡くなった方のお葬式も営めないままに、御遺体を火葬場に送らざるを得なかったこと。その心痛は、察するに余りあります。

 

 そして次は、これまでの対話のなかで、「これだけは、外したくない」「これは、大切ではないか」と思えるような、キーワードをあげていく時間です。そして、一つ一つの意味を、さらなる対話のなかで、整えていきます。どの辞書にも載ってはいない、あの場所とあの時間に集った方たちと、ともに作り上げた意味が、次のキーワードには込められています。

 

キーワード

・壊れたら、直せない

・内と外

・日常/非日常

・あいだ−中間

 

 そして最後は、「問い」をつくり上げる時間です。今回のてつがくカフェは、2時間で終わります。この場所と時間が解けた後も、独りで、または誰かと一緒に、考え続けることができるように、お土産として、またはお裾分けとして、「問い」を持って帰ってもらえるようにするのです。

 

・結ぶものと隔てるものは、あなたにとって何か?

・我々はアイデンティティを再構築できるのか?/すべきなのか?

 

 以上、2つの「問い」が練り上げることができました。

 文章にまとめてしてしまうと、やや重苦しい響きが残るかもしれません。でも確かに、あの場所と時間には、物腰柔らかな雰囲気がありました。笑いに誘われながら語りあうことで、出来事の本質を離さずに、ディープに話すこともできるかもしれません。

 

 引き続きこの土地で、対話の場を開いていくつもりです。機会がありましたら、ぜひお越しください。お待ちしております。